目次
はじめに
NPO法人Miekla(旧ivote関西)では約2年半、主権者教育プログラムの開発と実践を続けてきました。
Mielkaでは特に選挙前後になると多くの学校からご依頼をいただき、現実の問題に即した模擬投票をはじめ、社会問題を考えるワークショップや現実社会にある論争的な問題の探求プログラムなどを実践してきました。
統一地方選挙、京都市長選挙、2014衆院選、2016参院選を通してたくさんの主権者教育を実施してきた中で感じてきたことと、今月に行われる2017衆院選に向けて、今まさに主権者教育を行おうとしている先生方へお伝えしたいことを書かせていただきます。
また、これまで主権者教育を通して出会ったたくさんの子どもたちと先生方へ。
いつもご教示とあたたかいご声援をくださり改めて感謝いたします。
この場をお借りして、心よりお礼申しあげます。
教育における2つの転換点
この2年半で、教育界にとっては2つの、大きな変化がありました。
ひとつに、18歳選挙権が成立・施行されたこと。これにより、主に社会科の文脈の中で、主権者教育がさらに広がっていくことになりました。
2つ目は、学習指導要領が約10年ぶりに改訂されたこと。知識注入型の学習から、「主体的で対話的な深い学び」へと学びの質の転換を目指し、「生徒が主体」の授業が推進されます。
この2つの変化により、これまでの政治学習が暗記要素の高い制度理解に留まっていたものに対して、これからの政治学習はディベートや合意形成、模擬投票など主権者が有する資質と能力の獲得にゴールが広げられたことになります。
そして今月、約1億人が参加する日本で最大級の選挙がやってきます
9月28日に衆議院が解散され、いよいよ日本で最大の選挙がやってきます。
選挙というと、公職選挙法により18歳以上の投票権をもつ「1億人の有権者」のものです。
国政選挙、特に衆院選にもなると、テレビ番組のほとんどが選挙特番になります。選挙情報をフォローしていない人でも、SNSで必ず1日に1つは選挙関連の情報が無作為にとびこんでくるでしょう。また、家の周りや駅前では、選挙カーや街頭演説でにぎやかに。日本全土のあらゆる場所と空間で政治を感じられる特別な期間です。
1億人の有権者は、その膨大な情報の中から取捨選択し、願いを一票に込め、政治を動かすことになります。
取り残される2割の人たち
しかし一方で、選挙の時に忘れ去られる人たちがいます。未だ投票権を有していない17歳以下の非有権者の子たちです。
選挙のとき、彼らは社会においても、居場所である学校においても、忘れ去られた存在と化します。
政治家の方々は、子どもたちのいる場所にはほとんど出向かれません。統計的な数字上の理解ではなく、選挙権の有無に関わらず、実際に子どもたちと会い、その声に耳を傾けられる政治家の方がどれほどおられるのでしょうか。
学校では、選挙が近づき、「主権者教育をしよう!」、「模擬投票をしよう!」と発起されても、対象は有権者である高校3年生がほとんどとなります。
また、内容に少し言及させていただくと、選管の職員の方、または先生方から生徒へ、「あれやっちゃダメ」、「これもダメ」と公選法に抵触する禁止事項を教えられます。模擬投票も、現実社会との関連性がないものが散見されます。(もちろん、社会的に論争のある題材を扱ったり、模擬投票以外の広い主権者教育をされる先生方をたくさん存じあげております。)
そうなると、政治がますます遠い存在となっていきます。ましてや、主権者教育を受けていない子たちは尚更です。
まさに「勝手に」政治が動き、新たな権利を付与されても、本人たちはしっくりこないどころか、迷惑にさえ感じてしまう状況が生まれます。
有権者になって初めて「生の政治」について、問題提起される。そして、「投票にいこう!」と言われる。
これでは、行こうにもどうすればいいのかわからない。制度的な投票の仕方ではなく、投票をするための思考の仕方がわからない。「やってはダメなことがたくさんあって、なんだか近寄りがたい。そもそも分からない。」と、子どもたちが吐露するのも納得がいきます。
「当事者意識を持とう」という言葉は実はとても残酷なのかもしれない
少し話はそれますが、ぼくはよく授業の最後に「当事者意識を持って、社会を覗き、発信してみよう!」と伝えます。
ですが、皮肉なことに子どもたちが当事者意識を持ち、社会に対して問題意識を提起しても、それ受け止めてあげる体制がありません。
もしかしたら、ぼくが伝えていることは、「だれも君たちの声を聞かないけど、話しかけてみよう!」といっているのかもしれません。
社会が子どもたちの声に傾聴する体質ができていないのに、当事者意識を持とうと提起するのは、あまりにも乱暴で冷酷なことだと感じる時があります。そこで、次の問題提起です。
選挙における国民とは、有権者なのか
憲法43条には、次のように明記されています。
「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」
つまり、選挙で選ばれる国会議員は非有権者を含めた全国民の代表です。
にもかかわらず、日本の選挙では、国民=有権者と同義され、非有権者は見向きもされません。
選挙とは、1億人限定の有権者のイベントなのでしょうか?そして、主権者教育とは、有権者教育なのでしょうか?
どうか今回の選挙で有権者となる子どもたちとそうでない子どもたちとを分けないでください。(これは報道関係のみなさんにもお願いしたい。18歳の子だけを対象に取材されないでいただきたい。)
みんないずれ有権者になります。そしてその前に、みなひとりの主権者です。
有権者と非有権者を分けて行う教育が、「民主的である」教育とはいえないと思うのです。
主権者教育とは
最後になりますが、Mielkaの活動を通して、ぼくが考える主権者教育とは何かを示して、結びに代えたいと思います。
主権者教育とは、対象を有権者で線引きする狭い範囲の教育ではなく、ひとりひとりを権利の主体者として認識し、子どもたちの中に潜む願いに耳を傾け、子どもたちの言葉でそれらを言語化させてあげること。そして、いまとこれからの社会をつくるために必要な資質・能力を獲得し、行動する機会を与えてあげること。
いまから急いで主権者教育を取り組む場合は、子どもたちの願いの言語化を手伝ってあげてください。主体的で対話的な深い学びという意味では、グループで話し合うのもいいですね。子どもたちの意見を引き出し、聞いてあげる。気づいていない、足りない視点は、先生がそっと教えてあげてください。これだけでも子どもたちの中で、何かが変わり始めます。
自分の中にある問題意識と対面します。対等な立場で聞いてくれるオトナがいると嬉しくなります。もっと話したくなり、主体的に学ぶ力へと繋がります。
そうはいっても、言語化はすごく難しいものです。上手くはいかないかもしれません。その時は焦らず、ぐっとこらえてください。
教える側からの知識、知見の付与ではなく、子どもたちの気づきを手伝ってあげてください。先生はあくまでもファシリテーターに徹し、主役は子どもたちです。
絞り出したその声は、子どもたちが自我を顕出する勇気と日々の学習努力そのものです。
自分の中にある声に気づき、願いを形成し、権利主体者として、いまとこれからの社会をつくるために行動してほしい。
そんな願いから始まる教育が、主権者教育であってほしいと思います。
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